・サイゼリヤの場合
「巷で流行りの濃厚つけ麺を商品化しましょう」
「そうしましょう」
「スープにたくさん豚骨や野菜を使うとコストが合いません」
「減らしましょう」
「煮干しをたくさん入れると好き嫌いが分かれます」
「減らしましょう」
「できました」
「物足りないですね」
「こんなもんです」
「では販売開始」
「販売開始」。
安さを追求すると、とかくなんらかの欠落が生じがちなものである。
飲食店に限らず食品メーカーなどの日本の企業は、その欠落を埋めることにその努力を最大限に傾けている印象がある。
ところがサイゼリヤはその辺りが妙にサバサバしている。
妙な背伸びをしない潔さみたいなものがある。
納豆に例えるならば、各社がいかに万人に好まれかつ印象的なタレをいかに安く作るかにしのぎを削っている傍で、「いいじゃん醤油で。家にあるし」とタレ無しの納豆を2円安く出す、みたいな感じだ。
かつてサイゼリヤの正垣会長は、サイゼリヤはすごく美味しいものを目指さない、そこそこでいいんだ、というような事を言ったという。
私はそれは妥協でもなければ諦めでもなく、もちろん自虐などというものでもないと確信している。
それは「みんなどこもしょうもない食べ物にゲタはかせて無理やり背伸びなんかするから世の中にはマズい物が溢れるんだ」みたいなある種のパンクスピリットだったのではないだろうか。
かつてセックスピストルズが虚飾にまみれた商業音楽を嘲笑ってスリーコードで勝負したように。
ピストルズは2分30秒のロックンロールで世界を変えた。
サイゼリヤは299円のミラノ風ドリアで世界を変えた。
少なくともそれだけは確かな事である。
“ちなみに昔読んだ本によると、子供のころに庇護を受けて育った人は大人になっても困ったときに助けを受けるのがうまく、交渉スキルが発達して成功しやすいそうです。いやあ、絶望的ですね。もう幸せな子供時代を過ごした人には余計に税金かけるとかしないと平仄があわない”
— https://twitter.com/MAMAAAAU/status/521286678321713152 (via bgnori)
